昭和43年10月11日 朝の御理解
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経や大祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり、節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
「身に徳を受ける修行じゃ」と。身に徳を受ける修行をここにはっきり教えておられますね。身に徳を受けるということはどうでなからなければならないかと。身に徳を受けるという修行。「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行」、その辛抱こそ身に徳を受ける修行と。ですから身に徳を受ける修行というのは。
もう人情を超えたものでなからなきゃならないことが分かります。神様もご承知じゃろうと、神様もご承知じゃからというようなものであってはならん。やはり、どうあっても、どのようなことがあっても、というような精神が信心にはどうでも必要であることが分かりますね。身に徳を受ける修行ですね。それはおかげを受けるためにはそれはどんな信心でもいいでしょう。
けれども信心がいよいよ自分のものになってくる、信心によって、本当にあのう、お徳を受けさしてもらわなん、人間は徳を受けなければおかげにならん。この世でもあの世でも信心を持って行かなければ。または残してもおけると仰る。そこんところにひとつ楽しみができるような信心。そこで雨が降るから風が吹くからと、言うておられることは、例えばお参りをさして頂こうと思うても、外部、自然の働きの中にお参りしにくいようなことがあるということだと。
お参りしにくいようなことが起こってまいりましても、そこんところを何とか工夫さしてもらう。信心が必要である。また、外部だけではない。内部、自分の心の上に、別に何がどうと言うて、お参りしようと思えばお参りできるのだけれども、第一自分の心の中に神様へ向かう心がない時がある。いわゆる気分が神様へ向かない。そういうような時、やはりその辛抱こそ、そこんところを辛抱さしてもらう信心。いわゆる貫かせてもらうということ。もう今日はご無礼しようか。
別に雨が降っているわけでも風が吹いているわけでもない。けれどもやはり、今日はご無礼しようかといったような時があるけれども、そこんところをやはり、泣く泣くでも辛抱しながらというのはそのところじゃなかろうか。また、肉体上、痛い痒いというようなこともある。どうもお腹が痛む、熱があると。このように信心とはそげん難しいもんじゃろうかというごたるけれども、ここんところをです、頂き抜かせて頂こうとする願いを立てますとね、それが不思議にできまきます。
例えばもうそれこそ、這うてお参りさしてもらわにゃんという。この気持ちがありゃあ、放って神様はおかげ下さいます。ここ20年間あまり、やっぱり生身をもっておりますから、痛い痒いもありゃあ、いろんな病気で、もう本当に這うてでも行かれんごたる時もやっぱございました。けれどもやはり、もうこれだけは、もうそれこそ這うてもという気持ちでございますから、やはり御神前に出て御祈念もさしてもらやあ、お勤めもさしてもろうてきた。もうこげん体がきついとかあることは神様はご承知じゃから。
今日はご無礼しようというようなことがなかった。問題はどうでもというその信心です。このですね、どうでもこうでもという気持ちはね、もう神様にどのように響いていくかというと、神様もやっぱりどうでもこうでもという気持ちで弾んで下さるということですよ。ですからなるほど、お徳が受けられるはずだなあとこう思うです。気分のよか時だけ参る。用事がある時には参らん。それでも結構信心ですけれども、どういう例えばのっぴきならない用事があっても、これだけは貫かしてもらうというその気持ち、その精神。その精神が信心には必要です。
それがです、そういう精神が身に徳を受ける修行です。私は昨日、ちょっと失敗しました。みなさん御承知のように私は午後の4時の御祈念をさしてもらいます。昨日3時ごろからちょっと4時の御祈念を奉仕するためにちゃんと準備しよった。言うなら、ね、十分その間に合うだけの時間があるにも係わらず、他の用事をあっちこっちさしてもらいよった。それで、さっきは3時半じゃったから、まあだええまだええと思うてさしてもろうて出て行きよったら、もう10分過ぎとるんです。
もう本当にもうしもたとこう思うんですけれどもね、もうこれは本当に一秒だって切ってはならん、これが私の生き方ですね。朝の4時の御祈念でもそうです。一秒だって切らしません。それけんと言うて、ならもう3時50分に出ることもない。この辺が非常に大事ですね。いわゆるこうと決めたらこうというものでなからにゃいかんです。4時と決めたら4時。それから私、昨日4時前、4時過ぎ10分ここへ座りました。
それで御結界にそんなようがあってからもう、遅うなしついでと思うてからまた、4、5分間ここで御用さしてもろうて、まあ言わば4時15分くらいからもう一度出たんです。御祈念の座につかせて頂きましたら、つかせて頂くと同時に、つるたんの鶴ですね、鶴と、あの鶴の上半身を頂きます、御心眼に。言わばたった15分間ですけれども神様が、それこそ鶴の首のように首を長うして待っておられたということです。これこそ一分一厘間違いない。あの氏子はきっちり4時にはここに出て来る。
もうそのつもりで神様はちゃんとおられる。私はね、今日もここのところの、御理解を皆さんが、私がこうやって今、どんなことでも申しております。ほんなこっちゃろうかと、思われるようなことがあろうけれどもですね、一番最後のところにね、「拝むにも大声をしたり、節をつけたりせぬでも、人にものを言うとおりに拝め。」とこう仰る。人にもの言うとおりに拝めと。人にもの言うような気持ちというか、その人にもの言うようなとおりに拝ましてもらう。
例えば人にもの言うようなその、それを聞いて下さる神様ですから。人間と、まあ言うならばひとつも情においては変わらないことが分かるでしょうが。情感においては。誰々さんと何時でどこで会うようにしておった。さあ、5分待った、10分待った、それこそ待つ身になるのである。随分イライラしたり、どうしたこっじゃろうかとこう思うたりするようにです、神様もやっぱり同んなじですよ。
人にもの言うとおりに拝めと仰るような神様なんですよ。天地の親神様という神様は。ですからね、情の点においてはね、同んなじです、人間と。ということをこの68節の最後のところでは感じさしてもらいますですね。はあ、どうもすみません。お待たせいたしました。それからいわゆる神様との交流が始まる。中にいかに有り難そうに心行や大祓をあげても心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も無理に大きな音をさせるにおよばん。小さい音でも神には聞こえるとこう。
私共、御祈念の時には全然ものは言わない。それが人にものを言うようにと仰る、そのもの、只自分の心の中、言うなら口の中で言うておるだけ。自分の心の中で、場合には思うだけ。また口の中で言うておるだけ。だから人にはああもすうも聞こえん。それで、神様がそのことに対していちいち、受けても下さりゃあ答えても下さる。どんなに大きな、例えば、声を張り上げて申し上げても、真がないなら、神様は受けては下さらない。昨日私はあるえらい先生からお手紙を頂いた。
もうそれこそ、水茎のあとも麗しいというような手紙であった。それこそお母さんの手紙のようにも長い巻紙でずっと書いてある手紙であった。どうもこっちあたりはあんまりその勉強ができてないものですから、あんまりきれいに書いてあるからなかなか読めん。やっとかっと、まあ判読。ずっともう、一気に、この、まあいわゆる続け字で書いておられますから、なかなか読めんのです。そらもう見事な、本当にこら表装でもしたがよかろうちゅうごたる手紙。
問題はね、そういうその手紙というものは見せるものじゃないです。自分の意思というものを相手に通じさせるために手紙を書くでしょう。だからそれはかな釘流でもです、一字一字がはっきり読めて、難しい言葉使うことはいらん。平易に人にものを言うように、書いてある手紙の方が、私共にはよく分かるわけ。だからそのよい文章とかきれいな字で書いちゃならんということじゃない。ここでもそうなんだね。
大祓やらまた節をつけたり大きな声をしたりせんでもいいと言うておられるけれども、しちゃならんというのじゃない。してもいいそれは実感が込められて、そういう例えば祝詞言葉をもってですね、神様に申し上げる。そこで私たちお祝詞をお読みになる先生がね。いわゆる、祝詞言葉というのは神様だけに通うという言葉じゃない。 只神様に対してお粗末にならんように、ご無礼にならんようにと言うて、言わば敬虔なと言うかね、お粗末でない言葉をこう羅列して、人間の意志を神様へ申し上げる。
それでもです自分に実感も何ぁんもない、いわゆる自分自身がそのことのその意味すら自分に分からないようなことを読んだところで神様に通うはずはないです。それこそ「神にうそを言うようなもの」そこんところを最近では、どうもお道の信心が形式化してきたと言うて嘆かれておるのもそういうことです。形だけはきれいにできる形だけでは、いわゆる人間の見た目にはそれはええかもしれんけれども神様には通わない。
形式も大事その形式がやはり真の表れが形式である。拍手するでも無理に大きな音をさせることはいらん。拍手はせんでも神様が、例えば一分一厘間違いのないこの辺もやはり人間と同んなじですよ。私が4時に一秒間でも切らさんのですから「ぱん」と拍手しなくても神様の方が扉開けて待ってござるという感じです。だから朝の私の御祈念を一緒に拝まれる方はご承知でしょうけれども、拍手というものをしませんです。
もうきっちり4時にはもう、頭下げたらもう神様の方から話しかけて下さるような感じ。この拍手というのは神様の心を開く、お扉を開くと、その音によって。いきなりさんぱちこっちが拝んじゃいかん。だからもうわがよか時だけしか拝まん者ならやっぱ拍手せにゃいかんわけね。けれどもなら私の、例えば4時の御祈念、午後の4時の御祈念でも、一分一厘、もう一分一厘間違いなしに御神前に出るもんですから、もう神様の方が4時になったらぱっと開いてござる。
ですから開いてござるとに私が15分間も昨日はお待たせしたもんじゃから、神様の方がイライラしござる。そういう神様と私共との間にはですね、もうデリケートというのが、もう実にデリケート。そういう微妙な働きの働きあいの中から人間の心と神様の心とが交流する、とりわけ神様はこう言うちゅうことは、人間のこの情感と言うことは同んなじである、というようなことを68節では感じさしてもらいます、人にもの言うとおりに拝めというところにいたってはもういよいよそうでしょう。
少しお粗末になるというような、ご無礼になるような言葉でもです、言葉の表現が、ちょっと思い出さんならん、とにかく、回りくどう言わんでも、単刀直入に、神様痒いございます、神様痛うございます、どうかして下さいというような、私は表現でも構わんと。神様には、真さえあれば、真がそのまま実感になって私共が拝ましてもらう時、それは神様に通います。身に徳を受ける修行、それは私共が、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならん。
外部からどういうお参りがしにくいといったようなことが起こってきても、いえこれだけは何が何でもというて貫くということが大事。これは外部からだけではない。内部からでもそうです、今日は少し腹が痛みよりますからご無礼します。それでいいのです。決してそれがいけないのじゃありません。けれども身に徳を受ける修行ということになると、それでは身に徳を受けられる修行は受けられない。
身に徳を受けるなら、例え、初めから決めとかにゃん、どげん腹がせこうが胃がせこうが、これだけは私は必ず行じ抜かせて頂くというものがあればです、その気になればせきよる日でもやる。その時だけは腹が痛まん。問題はその思いなんです。どうでもこうでも貫かしてもらうという、そのそれなんです。自分の都合のよか時だけというのが、やっぱり神様も、神様にも、ちゃんと神様にもご都合があるのであるから、そげんお前の言うごたるわけにはいかんぞと仰ることにもなってくるだろうと思う。
けれどもです、やはりそこも人間と同じこと、どんなことがあっても、神様の前に立て貫かせて頂くこの真というものがです、常平生できておるならばまさかの時にです、神様があの氏子のためにはやはり神様にも都合があっても、その都合を他において、その氏子のために働いて下さるというおかげの受けられるのがこの神様。だから信心に節度を持てと。ここで私が申しますですね、信心には節度が必要であると。
きちっとしたものが必要である。皆さん信心の稽古ということはね、そういうことを稽古することですよ。「神参りをするのに雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」ということ。ここんところを今日はまず申しましたですね。それから次の「いかに有り難そうに心経や大祓をあげても心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も無理に大きな音をさせて拝むにはおよばん。小さい音でも神には聞こえる」と、ね。
ここんところで、真、真実を神様に聞いてもらう、分かってもらうということはそれはかな釘流でもいい、ひらがなばかりでもいい。かな文字だけでもいい。相手にそれが通じるものでなからなければならないということを申しましたですね。どんなに素晴らしい、例えば水茎のあとも麗しいというような字を書いても、私共のように学のない者は、読むのに骨が折れる。分からんところもある。それでは神様もところどころしか聞いてはござらん、分からっしゃらんということになってくる。
だから、私共が、例えばここに形式を重んずる時にはその形式の内容がです、果たして神様のお心に通う内容であろうかと、自分のこれを確かめてみなきゃいけない。こんなものを言葉には言いよるが、そのいいよる言葉が心の中にもあるかどうかということをですね、何か知らんけれども、あの祝詞の言葉なんか聞きよると、まるきり神様ばおだてよるごたる感じのする祝詞がある。感じますね。
神様を何かこうやっておだてよる、おだてにのんなさるような神様じゃないって、この神様はそういうようなことをこの中に教えておられるようですね。そして一番最後のところ、人にもの言うとおりに拝めという所に至ってですね、この神様がどのような神様かということを感じられる、れはお言葉だとこう思いますね。人にもの言うように、いわゆる情感においては人も神も同じだということをここでは私は感じます。
御祈念しながら神様が笑いござる時にはこっちも御祈念しながらくすくす笑いたいような時がある。もう情感において同んなじです、人間と。相手がにこにこして話しゃあ、こっちもにこにこして話すのも同じことです、こちらが真剣にしよんなら、相手もやっぱ真剣に聞いて下さる、それと同じ。通うということにおいては、だからいずれにおいても同じことなんだ。人にもの言うとおりに拝めと、どげなことでんよか、言うたってよかというような意味でここを私は頂かずに、この神様はそういう神様だと。
人にもの言うように、人間と神様と言うとこう、なるほど神様は目にも見えない、姿もないのですから、疑えば限りがないのですけれども、実際に拝まして頂いてみて、実際、信心をしてみて、確かに神様はござる。いわゆる、何て言うんですか、手応えがある。しかもその神様は、こっちが笑えば神様も笑うて下さり、こちらがその真心を実感を持って申し述べられれば、それをいちいち合点して聞いて下さる。
いわゆる相談にいちいちのって下さる神様。それはそうだけれどもお前よく考えてみれ、それはお前がそう言いよるけどもこうじゃないかと、言わばお諭しを下さることもある。そういう神様なんです。天地金乃神様というのは。そういう私はね、言わば情と言うかね、その情感が神様と細かに交流するところのおかげを頂かせてもらう、楽しさとか喜びとかというものがだんだんできてこなければ、一番初めのところの神参りをするに雨が降るから風が吹くから、えらい大儀と思うようになる。
もう今日だんご無礼しようということになる。言い訳はできん。さあ、夕べはもうちょいと、こういうことで事情がございましてから、ちょっと人が来たけんでとか何とかと言うてあるけれども、そこのところでも、どうでもこうでもと言う様なものが出来るということ、自分の節度というものを守りぬかせて頂くということ。そこに例えばね、それが間違いであれば。間違いのないものであるほどに。
神様も正確にそれを待って受けて下さるということそれを私、昨日の4時の御祈念に15分間遅れたということの例をもって申しましたでしょう。「身に徳を受ける修行じゃ」と言うのはね、私はそういう、例えばこの68節に頂かして頂けれる、まあどこからでもですね、これでは身に徳を受ける修行にはならないというようなものを分からしてもろうて、いよいよ身に徳を受けていく修行に励まして頂かなきゃならんと思うですね。
どうぞ。